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​水戸歩兵第二連隊跡等 New

​水戸歩兵第二連隊は、明治7年3月に連隊の創設が下令され、明治10年2月に西南の役が勃発し歩兵第二連隊がその討伐を下令されました。明治27年8月に日清戦争、明治37年2月には日露戦争が勃発しいづれの戦争にも派遣された歴史ある陸軍部隊であります。

時は過ぎ、昭和6年9月満州事変が勃発し満州に転進し関東軍の隷下に入りました。

その後も二・二六事件、盧溝橋事件・支那事変に出動命令が下令され、大東亜戦争に突入後昭和18年6月聯隊長に中川州男大佐が就任しました。戦況が厳しくなった昭和19年4月、大連~横浜~小笠原父島~パラオを経由し第十四師団隷下の中川州男大佐率いる水戸歩兵第二連隊・高崎歩兵第十五連隊を主力とした精鋭部隊がペリリュー島に転進し守備隊となりました。

昭和19年9月15日、アメリカ第1海兵師団が上陸し戦史に残る激戦の末、昭和19年11月24日、軍旗軍旗奉焼・中川聯隊長自決、七十余年にわたる聯隊の歴史を閉じました。しかし、その後も生き延びた陸軍・海軍の兵士はジャングルの中の洞窟に潜み、昭和22年4月22日34名の日本兵はアメリカ軍に投降しました。この生き残りの34人は後に「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成していますが、生き残りのお一人で海軍兵であった土田喜代一氏は平成30年10月15日98歳で天寿をまっとうされました。そして私が知る限りでは、ペリリュー島の戦いを知る生き証人はお一人、水戸第二連隊所属の永井敬司氏一人です。

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水戸歩兵第二連隊跡の碑は、水戸市内堀原運動公園の一角にあります。

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ペリリュー島に散った水戸歩兵第二連隊のあったことを後世に刻む碑

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​同左

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​同左

​横から見たところです。

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​水戸歩兵第二連隊跡の碑

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